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まったくの青二才だったシービスケットは、トラックを右往左往しながらも、マートルウッドに離されまいとする先行馬とともに疾走した。
だが向こう正面をスムーズに走っていた時、なんの前触れもなく、前脚を前に投げ出して踏んばり、急速に馬群から取り残されはじめた。
前方ではマートルウッドが大差をつけて先頭を走り、地元のスター馬、プロフェッサーポールが追いつこうとむなしい努力を重ねている。
不意の痛痛によって、シービスケットの勝利の望みは完全に絶たれたかに見えた。
だがPが馬を直線に向け、もう一度レースに集中させた時、Sは終生忘れることのできない光景を目の当たりにする。
シービスケットがトラックを猛然と走りだし、この競馬場の過去の記録を上回るスピードで走っていたマートルウッドとの差を、次第に詰めはじめたのだ。
立ち直りが遅すぎたせいで、1着や2着の座を奪うことはできなかったものの、最終的に4着につけ、コースレコードを破ったマートルウッドとも、わずかに4馬身の差しかなかった。
それ以上に心強かったのが、直線でシービスケットの耳が立っていたことだ。
これは、余力を残して走っていたことの証だった。
つかってやりさえすれば、あいつはとことん走ってくれる」とPは語っている。
相変わらず調教ではさぼったり、いたずらを仕掛けたりしていたものの、そのスピードは他を圧倒していた。
2週間後、Sは、この馬をレースに送り出す時が来たと判断した。
馬主のHも同意した。
「ミスターH」彼は大声で叫んだ。
「あの馬ならAに勝てますよ!」Hは笑った。
次の出走、9月2日のローマーパンデ戦でのシービスケットは、ついていなかった。
最初はトップに立ったが、3コーナーで外側に大きくふくれ、4着まで後退した。
立ち直るかと思われたところで馬群に巻きこまれ、ゴール前の直線をかなり進んだところで、ようやく馬群から抜けた。
そのあと一気にスピードを上げたものの、あと一歩でプロフェッサーポールに届かなかった。
だがSは満足し、もっと厳しいレースに出しても大丈夫だと判断した。
9月7日、シービスケットは州知事杯ハンデ戦に出走した。
全国的には知られていないレースだが、フェアグラウンズ競馬場ではシーズンきっての大イベントである。
シービスケットのオッズは高かったが、もっともな理由があったレースにはほかにプロフェッサーボールと、以前にWの騎乗でサンタ戦に勝利したAも参戦していたのだ。
ただしその日の騎手はWではなく、馬にももはやかつての勢いはなかった。
ここの競馬場では史上最多となる2万8千人のファンが観戦に訪れ、H夫妻も当然そこにいた。
「あの馬はあの日、ふたつのすばらしい資質を示してくれた」Sはのちにふり返っている。
「ひとつはスピード、そしてもうひとつは勇気。
あの馬は途中でトラブルを起こしたが、耳が立っているのを見て、もし本当のスピードを引き出してやることができれば、チャンピオンの座をものにできると確信した」。
Pも同じ気持ちだった。
シービスケットの背から飛び降りた彼は、Hのもとに駆けつけた。
観客の目はレースに釘付けになった。
スタートの直後、最初に飛び出し、快調に飛ばすバイオグラフィの後ろにシービスケットはつけた。
最初のコーナーを回り、長い向こう正面に入っても、その位置を保ちつづけた。
3コーナーに入るところで、Pはラチ沿いに小さなポケットを見つけた。
彼はシービスケットにそのポケットを抜けさせ、わずか数完歩で、先頭をがっちり確保した。
離されまいとするバイオグラフィが加速すると、プロフェッサーポールも外から一気に迫ってきた。
トラックの中央では、アスーカルが長い脚をまつすぐに伸ばして加速を開始し、じりじりと近づいてくる。
4頭の馬はそのまま最終コーナーを曲がり、直線に入った。
Pは、ジョッキーの言葉でシービスケットに呼びかけた。
初めてシービスケットが応えた。
Pは腹を鞍にぴたりとつけ、めいっぱいスピードを上げた。
4頭の馬はものすごいペースで直線を疾走した。
半馬身差でシービスケットが先頭。
最初に脱落したのはバイオグラフィだった。
負担斤量が4.5キロ弱とシービスケットより4.5キロも少ないプロフェッサーポールが、軽さを利して少しずつ差を詰めてきた。
大外からアスーカルがこの2頭を追いこんでくる。
直線のなかばでは、プロフェッサーポールの頭がPの腰まで迫り、そのすぐ後ろにアスーカルがいた。
プロフェッサーポールはたちまちPのひじあたりまで近づき、なおもスピードを上げていた。
そこでアスーカルが脱落した。
残るはシービスケットとプロフェッサーポールのみ。
プロフェッサーポールは前脚を踏承出すたびに、差を縮めてくる。
総立ちの観客が見守るなか、シービスケットのぎ甲に身体をぴったりつけたPは、左手に手綱、右手はシービスケットの首に押しつけたままふり返り、プロフェッサーポールの眉間の白い星月をじっと見つめた。
ゴールまであと数メートル。
プロフェッサーポールはシービスケットののどに迫った。
届かなかった。
シービスケットの勝利だった。
11年という長い騎手生活でIがステークスレースで勝ちをあげたのは、これでようやく4度目だった。
彼は晴れやかな表情を浮かべた。
観客の喝采に応えてシービスケットをギャロップさせ、それからスタンドに戻らせた。
シービスケットは尻尾を空中高く振りながら、ぴょんぴょん跳ねていた。
はみをもてあそび、ラチそばで朝刊用の写真を撮っていたカメラマンに向かって、耳をふり動かした。
Pは馬をウィナーズサークルに戻し、背から飛び降りると、少年のように顔を輝かせたHのもとに駆けよった。
この勝利はマィナーリーグの、中程度のステークスレースのものにすぎなかったかもしれない。
だが馬主と調教師にとっては十万ドルレース並みの価値があった。
セレモニーが始まった。
大きなアメリカ国旗に包まれ、スーツ姿のお偉方がぎゅう詰めになったウィナーズサークルで、馬主のM・Hは巨大な銀の優勝杯を差し出す副知事に慎み深く微笑みを返した。
背後には、スカルキャップをぬいだPが立っている。
髪の毛は汗で黒光りし、見えるほうの目をカメラに向けるために、顔を軽く傾けていた。
大きな優勝杯の隣で、彼の身体は圧倒的に小さく見えた。
その横には険しい顔をしたSが、亡霊のように立っている。
口をいつものようにへの字に曲げ、灰色の頭は、頭上の白い雲に切れ目なく溶けこんでいた。
うれしそうに笑うT・Hは、スタンドの端で押し出されそうになっていた。
ひととおり撮影が終わると、「ガバナーズパンデ戦・デトロイト」と派手に刺繍された肩飾りがシービスケットの背にかけられ、Mがシービスケットの鼻を支えて、また新たな撮影が始まった。
Sは次々にたかれるフラッシュを無視して、馬を丁寧にチェックした。
シービスケットは頭からつまそこに立っているのは、新しい馬だった。
生涯50回めの出走で、シービスケットはようやく競馬というゲームを理解した。
SとPはこの馬から、Sの言を借りるなら「今までに見たどの馬よりも自然な、走りに対する欲求」を発掘したのである。
しかめ面の陰で、Sは満足していた。
シービスケットは変身した。
厩舎では拍子抜けするほどおとなしくなり、どんなことをされても怒らなくなった。
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